チョモランマの唄

あなたの笑顔が見たい あなたの笑顔をつくる     幸せに生きることはかんたんなことさ

流れていくのは船と青い鳥

外国籍のクルーズ船に乗る40代の女性スタッフ。

パンツスーツが似合う彼女。

この人に。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「なんでそんななの」

 

聞き飽きたセリフ。

幼い頃から学生時代も、大人になっても、親に、周りに言われ続けるセリフ。

なんで周りと同じことができないのって。したいことじゃないからに決まってる。他に答えがあると思うの?

 

そんな私は大人になっても他の人と違う仕事に就いた。日本中そして海外さえも周って、同じ場所にずっといないクルーズ船のスタッフに。

今日出逢って明日別れる。そんな距離感がいいのだ。

 

「なんでそんな無神経なの」

いつもと若干違ったセリフ。娘の将来を心配する母親のボキャブラリーは変な方向に豊富になったのか。

「こんなに私が気を遣ってるのになんでそんなに…」

「そんなんじゃ友達も他の人も離れていくからね!」

 

通話終了画面を見つめてたらしい。少し目が乾いて痛い。母親の捨てゼリフは思いがけず抉っていった。

離れていくって。そんなの知ってる。我が道を行く私に一緒に来れる人は少ない。その事実が染みない日はない。そんなの。それでも、それでも。

 

寝転びながら青い鳥のアプリを開くと、つぶやき達が流れていく。芸能人、テレビ、食べものの写真…

 

ひとつの、つぶやき。

 

 

『気を使うタイプの人はあまり納得できないだろうけど、

気を使えない人間にとっては

「気を使ってくれるけどこちらにも同程度の気遣いを求めてくる」人より

「まったく気を使ってくれないがこっちにも要求してこない」人の方が付き合って楽だったりする』

 

 

私だけじゃない。私だけじゃなかった。

不器用で、他人の望むやり方もわからなくて、近づくのが恐くて、すぐ別れを選ぶ人。

それでも、それでも。

 

うまく優しくできないけど、せめて、要求はしない。それが私の気遣い。

もし、気づける時があったら少し手を伸ばす。それも私の気遣い。

 

明日別れるから今日の出逢いを大切にできる。

そんな形もあっていいでしょう。

いつかあなたの目を見て伝えたい。

これが私の優しさなのだと。

優しい眼鏡でわたしを救う話

初めて降りたJR駅で出会った、リクルートスーツの彼女。

 

この人に。

 

〜〜〜〜〜〜〜

今日も駄目だ、駄目だった。

 

前の会社を辞めて1ヶ月。売り手市場なんていうから簡単に転職できると思ったのに。

「あなたの経験がこの仕事でどう活かせますか?」

やったことないんだから知らないよもう!

隣の男の人は経験者だったから、なおさら自分の薄っぺらさが出てしまった気がする。

面接は1対1でしょ!そういうとこだよあの会社!

 

なんて、相手を下げたところで自分の株は上がらない。わかってる。

社会人3年目で無職なんて。友達にも言えない、親になんて、なおさら。

駄目だ。なんでだ。都会で1人で頑張ってるのに。駄目だ。わがままなのか私は。駄目だ。こんな人生駄目だ。駄目な人生生きてる。

 

大学卒業の時なんで地元に帰ろうとしなかったんだろう。今は、もうその気持ちも思い出せない。こんな人生じゃない、描いてたものがあったはずなのに。

 

コンタクトを外して眼鏡にしたらぼやけた視界が帰ってきた。

重たいカバンを部屋に投げ出した。ら、本が1冊投げ出された。

昨日は日曜で、遊びに行った先輩の家で無理くりおすすめされた漫画。これ1巻じゃなく2巻だしもう。

読み始めたけど、なに、ロボットアニメ作りたいの?よくわからないけど観客を納得させられないなら駄目なんじゃない?

 

 

『「あのねぇ、あなたがダメだと思うから、この作品はダメなんですよ。」

 

 「大半の人が細部を見なくても、私は私を救わなくちゃいけないんだ。

  動きの一つ一つに感動する人に、私はここにいるって、言わなくちゃいけないんだ。」』

 

視界が、ぼやける。

私が良いと思うなら、この人生は「良い」のか?面接が駄目でも周りと違っても否定されても、私は、私だけを救うためにやってもいいのか?

 

なら、私はわたしを救う。

私がわたしの人生を「良い人生だね」と言ってやる。

 

暑い中サボらずちゃんと面接に行って、1年ぶりのパピコガリッゴリッに冷たくて、コンタクトは痛かったけど眼鏡は優しくて。

今日も良い人生だったよ、わたし!

 

 

映像研には手を出すな!(2) (ビッグコミックス)

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人生の隠し味は3分でいい

 今日出会ったのは、新大阪駅のカフェのお姉さん。長い髪を一つにまとめてエプロンつけていた。15席くらいの小さいお店。

 この人に。

 

〜〜〜〜〜

店の外を毎日何百人何千人が通り過ぎる。大阪に来た人、大阪から帰る人、立ち寄っただけの人、ずっといる人。

ここは大都市 大阪の玄関口。

その流れとガラス扉1枚へだててコーヒーや紅茶、ハーブティーを淹れる。茶葉から抽出されるまでは、ただ待つ時間。考えごとしかすることがない。

あっという間に過ぎる外の人影と、立って待つ自分。この時間は同じものかな。周りに追いつけない。他の人みたいに立派になれない私は置いていかれるんだろうか。

 

帰りに本屋さんに寄ったら、追いかけてる漫画の新刊が出ていた。仕事に熱いキャラクター達が、こんな私を責めたり励ましたりする。

今回はどちらだろう。

 

 

『それ以来、3分以上は悩まないことに決めました!

 同じ試合は二度とないんです。

 相手のコンディションも

 自分のコンディションも

 周囲の状況もすべて違う。

 自分の明らかなミスや弱点を確認したら、

 負けたことは忘れていいんです。

 

 次 勝てばいい!!』

 

 

悩むのは、コーヒーがおちる3分だけ。

同じ味は二度とない。

同じ私も二度とこない。

(それは同じ失敗を繰り返さない安心でもあり、成功の喜びも一時にすぎない訳でもある)

 

私は今日の私が嫌いでも、ちょっぴりその涙を持って行って。

その隠し味が、きっと次の私をおいしくしてくれるから。

 

 

 

 

くちびるに名言を

名言が好きです。

 

リズムのいい羅列、ピリッとした喩え、ハッと刺さってくる一言。

思わずにんまりしてスクショ撮るか、メモとるか、ページの角を折るよね。

 

貯まってきたので覚書としてブログにすることにしました。

で、その言葉見つけたときの気持ちも残そうとしたんだけど、どうにもしっくりこない。

私の気持ちを言葉にしても私の言葉にならない。

しょうがないので、誰かに代弁してもらおうと思います。

 

今日見かけた誰かに、この名言を重ねて。

私のささやかな喜びに。

あなたが喜ぶならば チョモランマも越えていく

つねづねSMAPの「チョモランマの唄」は名曲だと思っている。

どこが?って、この短さに人生の大切なところがギュッとつまってるから。


ライブの曲間をつなぐジャンクションのために作られた曲。

だから歌詞は短い。普通の曲のAメロしかない。

ほかは「チョモランマ チョモチョモランマ」しか言ってない。いやほんとに。



『あなたの笑顔がみたい

    あなたの笑顔をつくる

    あなたが喜ぶならば ぼくのテンション チョモランマ』


電車でお年寄りに席をゆずりたい方だ。

エレベーターで人のために「開」ボタンを押す方だ。

道を渡るとき車が止まってくれると小走りで渡る方だ。


なんで?


別に疲れてたら座ればいいし、エレベーターは先に降りればいいし、悠々と渡ればいい。

だれも気にしない。


でもわたしが気になる。


なんやかんや人が喜んでくれたらうれしいんだ。

もっともらしい理由はつけれるけど、もうそういう生き物だとしか思えない。

だから人に失望されたり喜んでくれないとしょげてしまう。

それは相手のせいではないけれど、見返りを期待しちゃう。


『つらき時こそ笑え

   怒れる時こそ笑え

   幸せに生きることは 簡単なことさ

   あなたが喜ぶならば ぼくのテンション チョモランマ』


でもそれでもいいのかもしれん。

どんな名打者も打率は3割。

ストレートしか知らないわたしのバットじゃ空振りもあるだけさ。


見返りを求めないマザーテレサはかっこいいけどなれない。

でも空振りを笑えるようにはなろう。

かなしい時も、怒れる時も、打席に立てるようになろう。


それでもしだれかが笑ってくれたなら、

打球はチョモランマだって越えていくよ。



SMAPはスーパーマンじゃない、けど。

※私のSMAPへの今の気持ちを整理するために書いた記事です。黒歴史になるかもですが、自分への宣言として公開します。

 

どこから話をしよう。

SMAPを好きになったのは2年前「愛が止まるまでは」を見たとき。"かっこいい"が板についている、という第一印象。

歯に衣着せずに言うと、私は元々ジャニーズには薄っぺらさを感じて好きじゃなかった。「君を守るよ」と歌われても実際はそうしないだろうと思ったし、ウィンクは外国人スターの真似のように見えた。日本人には似合わない。

SMAPにも世界に一つだけの花で日本中が沸き返っていた頃には興味をもったが、自然に冷めていた。

 

なのに40歳を越えた今のSMAPが、問答無用で私に"かっこよさ"を叩きこんできた。

そのときは頭が働く前に「かっこいい…え、かっこいい…」と口が動いていた。

今ようやく頭を動かしてみると、「この人たちは本気で歌ってるし、本気でこう生きてきたんだ」と直感で受け取ったのだと思う。そこらの若者にはない本当に積み上げてきた人たちだけが出せるメッセージ。

言葉と音でしかないものに自分の心をのせ人の心を揺さぶること。

感動させるということ。

 

"人として"かっこいい。それがSMAP

 

この人たちをステージの真ん中に立たせているのだから、日本は真っ当な国じゃないかと未来に希望さえ持った。自分もがんばろうと思った。

それが、2015年。

 

 

2016年は、なんだったのだろう。

朝起きるたびに事態が好転してないかと携帯を開け、もしくは悪いニュースに怯えながら1日が始まった。今までの人生でそんな生活したことなかった。

メディアは希望をくれない。何が真実かわからない。声を上げることは5人にとって迷惑なのか。

また、私はジャニーズのしきたりを全く知らない。だからこそ事務所のファンへの対応は驚くばかりだった。お客様上位とは言わないが顧客は対等でさえないのか、と。

でも所属タレントは魅力的だからファンは事務所から離れられない。正論と現実が噛み合わないのがジャニーズなのだとも思った。

 

そんな中で私の蜘蛛の糸となったのはツイッターで繋がったファンの方々。

もちろんありとあらゆる意見があった。普段絶対目にも耳にもしないような言葉を見てしまい、それが1週間頭の中でリフレインしていたこともある。

でもそれ以上に尊敬する人たちがいた。ハガキを書く人、商品を買う人、手紙を書く人、毎日花の写真をアップする人、草の根で伝える人。

強いから傷ついてないんじゃない。

傷口から血が止まらないのに「SMAPが好き」だけを杖にして歩き続ける人たち。

その背中を追って、私も花を摘み、イベントで叫び、募金をし、SMAPのファンだと公言した。誰かのファンだと言ったのは生まれて初めてだった。

2016年。SMAPファンは、がんばった。

これだけは誰にも否定させない。

 

 

2017年になった。正直に言おう。

SMAPはなくなるかもしれないと思っていた。ただ同時に、SMAPがなんとかしてくれるかもしれないと期待もしていた。

 

なんて甘っちょろかったんだ自分。

 

存続を願ったファンは負けたのだと思う。勝ち負けで測りきれないにしても、存続しなかったということは確かに"負けた"んだ。SMAP5人は奇跡を起こせなかった。夢見たスーパーマンじゃなかった。

 

SMAPはスーパーマンじゃない、けど。

 

けど、私は彼らが好きなままだ。今回負けたことで、本当に恥ずかしながら、やっと気づいた。彼らはスーパーマンじゃない。人の言葉で傷ついて理不尽なこともあってそれでも笑顔でがんばったけど心が麻痺したり話せないこともたくさんある。私たちとおんなじなんだ。

勝手に期待して「なんとかしてくれる」なんてごめんなさい。守れなくてごめんなさい。

でもこのままじゃ終われない。

あんな顔が最後のSMAPじゃ私の人生後悔なく終われない。 

 

さて、じゃあこれからどうしようか。

中居さんは12月31日に締めてくれた。SMAPとしてバイバイしてくれた。じゃあここからは私のエゴだ。「SMAPがなんとかしてくれる」「SMAP5人が求めてるから」なんて言い訳だと思う。

もうスーパーマン頼りはやめたんだ。"私が"SMAPを求めてるんだと頭に叩き込んで肚をくくろう。

テレビを見れば5人が集まらない現実に打ちのめされるし、昔の映像見ては今と比べて泣いちゃうし、一体いつになれば再結成になるかわからない。

それでも肚をくくって行動していくしか、SMAPに会える道はないんだと。

 

幸い「SMAPー!」と叫ぶチャンスはたくさんある。

2017年は見守りつつ、2018年は結成30周年で2019年9月9日は無理なことを一緒にするし、2020年はパラリンピックで全世界にSMAPファンですって言いながら応援するし、2021年はデビュー30周年だ。

SMAPを忘れるひまなんてないよ。

 

S-LIVEでみんな言っていた。

「守ってあげたい」「とにかく笑えれば 最後に笑えれば」「力を集めて ひとつに集めて」

その通りだ、と思ったんだ。その気持ちを持ち続けたい。

 

SMAPも私も単に1人の人間でしかない。どうにもできないこともある。でも何がきっかけで導火線に火がつくかなんて誰もわからないじゃない。

 

 

スーパーマンじゃなくていい。

あと25年いっしょに歩いていきたいです。